レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年10月21日
- 登録日時
- 2011/10/23 22:07
- 更新日時
- 2012/08/31 15:11
- 管理番号
- 10-3C-201110-01
- 質問
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解決
大阪市立図書館のあゆみを知りたい
- 回答
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大阪市立図書館は、1921(大正10)年6月20日に開館した阿波座図書館(西区)・西野田図書館(北区)がその最初で、続いて同年10月1日に御蔵跡図書館(南区)、清水谷図書館(東区)が開館しました。1904(明治37)年に開館した大阪府立図書館の分館計画を引き継ぎ、当時の東西南北・全4区に1館ずつ設置されました。
当時は閲覧料を徴収したり、館外への貸出サービスを行わない図書館もありましたが、大阪市の図書館は創立当初から、数え年7歳以上であれば誰でも無料で利用することができ、館外貸出も積極的に行われました。4館の蔵書総数は約1万4千冊、貸出期間は2冊・10日間(児童は1冊・6日間)でした。
御蔵跡図書館は作家の司馬遼太郎が学生時代に通った図書館としても知られています。
1925(大正14)年、大阪市は第二次市域拡張により東成郡・西成郡の44か町村を編入し、行政区も4区から13区となりました。このとき大阪市に編入した今宮町の図書館(大正11年8月開設)を引き継ぎ、同年5月1日に今宮図書館(西成区)として開館しました。
また城東村から建物の寄付を受け、翌年11月1日に城東図書館(東成区)が開館し、市立図書館は6館となりました。その後、図書館の建設は進まなかったため、1区1館の図書館設置計画は崩れてしまいました。しかし、この6館体制で、各館ごとに巡回文庫・児童文庫を編成し、読書会・講演会・児童会・婦人会等を開催して、大正期から戦前まで市民の教育・文化に大きな役割を果たしました。1936(昭和11)年の6館の蔵書総数は約7万冊、利用者総数は年間約48万人でした。
1944(昭和19)年4月に西野田・阿波座・御蔵跡・城東の4館は戦時託児所に転用されました。清水谷図書館は、建物の老朽化のために昭和10年3月より閲覧業務を中止していたため、この時期に開館していたのは今宮図書館だけでした。 4館が託児所に転用されるのと同時期に、清水谷図書館は元大阪育英商工学校跡(南区)に疎開移転し、名前を「育英図書館」と改称することになりました。この「育英図書館」は、清水谷図書館の蔵書のほか、託児所に転用された4館の主要図書を移転して開館準備を進めていましたが、1945(昭和20)年3月の大阪大空襲により、開館を迎えることなく焼失してしまいました。また唯一開館していた今宮図書館と、旧阿波座・旧御蔵跡2館の建物も全焼し、市立図書館の閲覧事業はすべて停止となりました。戦火をまぬがれたのは、旧西野田・旧城東図書館に残されていた図書約2万冊、閲覧机20脚、椅子100脚、事務机10脚だけでした。
戦後の市立図書館は、開館しないまま焼失してしまった「育英図書館」の名称を引き継ぎ、精華国民学校(南区)の空き教室を借りて、1946(昭和21)年7月1日に「大阪市立育英図書館」として開館しました。蔵書は約2万冊で、閲覧方式はこれまでの閉架式から開架式となり、直接図書に接することができ、また交通の便もよいため市民によく利用されました。
しかし、戦後復興とともに精華小学校(1947年4月に国民学校より改称)の児童数が増えて教室の明け渡しを余儀なくされたため、1950(昭和25)年6月1日に図書館は桜宮公会堂の2階へ移転し、名称も「大阪市立図書館」と改められました。当時の桜宮は交通の便が悪く、育英図書館時代より利用者数は減りましたが、学校の試験期間になると朝から学生が列をつくって図書館の開館を待つようになり、次第に利用者の数も増えていきました。
この「大阪市立図書館」は、1961(昭和36)年に西区に旧中央図書館ができたときに、「桜宮図書館」と改称しました。1978(昭和53)年7月に現都島図書館が開館したことにともない、翌年3月に廃館となりましたが、戦後復興期から約30年間市民に親しまれました。
1952(昭和27)年の春に天王寺公園で開催された「婦人こども大博覧会」の終了後、その建物の一つであった「講和記念館」が、大阪市に図書館の建物として寄贈されました。この天王寺公園内の図書館を本館、桜宮の「大阪市立図書館」を分館として、市立図書館は2館体制となりました。
この天王寺本館は、鉄筋コンクリート造地上3階・地下1階建の本格的な図書館として同年12月1日に開館しました。全面開架式を採用し、図書や雑誌、新聞のほか、200席のホールやレコード室も備え、講演会・こども会・レコード鑑賞会なども開催しました。交通の便もよく、連日入館を待つ人々の長い列ができました。特に学生の利用が年々増加したため、空き室を改修して閲覧室・閲覧席数を拡大したり、一般成人専用の閲覧室を設置したりしました。開館時間も当初は午前9時から午後5時でしたが、2年後には午後8時30分までに延長されました。
天王寺本館は、1985(昭和60)年4月に現天王寺図書館へ移転開館するまで、「公園内の図書館」として親しまれました。
中央図書館建設計画は、戦争で延期されてから長らく実現できないままでしたが、市政70年記念事業として再び建設計画が持ち上がり、1959(昭和34)年3月の大阪市会で中央図書館の建設が決定されました。1921(大正10)年の創設から40年目にして待望の中央図書館が実現することになったのです。
1961(昭和36)年11月1日に、西区の現中央図書館と同じ場所に、様々な機能をもつ、当時の日本では最高水準の図書館として開館しました。従来からの1区1館主義をかかげ、将来各区の分館網が完成されたときにセンター館として中枢機能を果せる施設としました。また大都市における先進的な中央図書館として、各主題の担当者を配置する分科閲覧室の体制を整備しました。
蔵書の充実や分館の設置など、身近な図書館の整備の声が高まり、多くの署名とともに大阪市会に建設の要望が提出されました。1972(昭和47)年7月に初の地域図書館として、東住吉図書館(1974年7月22日に分区により旧平野図書館と改称)と西淀川図書館が相次いで開館しました。このあと、1989(平成元)年の島之内図書館まで、各区に1館の地域図書館整備が進められました。
その後、中央図書館は、現地建替えのため、1992(平成4)年9月から1996(平成8)年2月までの間、旧電気科学館の建物に移転し、仮営業を行いました。図書館の仮営業中は、プラネタリウムのドーム部分を書庫として使用したので、電気のスイッチを入れると夜が白々と明けるように書庫が明るくなりました。
1996(平成8)年7月2日、新しい中央図書館がオープンしました。当日は玄関の外に長い行列ができ、9時15分の開館と同時にどっと人並が押し寄せて、館内は終日混雑しました。開館初日の入館者は、10,632人、貸出冊数は、12,664冊を数えました。
また開館と同時に、図書館情報ネットワークシステムが本格稼動。市立図書館全24館をオンラインで結び、蔵書のすべてがデータベース化されていることにより、どこの図書館からも所蔵情報や所在状況が即座に可能となりました。
新中央図書館の建設地については、北区の旧堂島小学校跡をはじめ数か所の候補地があげられ、また西区役所との合築や図書館の上に住宅をのせる案などの複合化も検討されましたが、最終的には西長堀の地での現地建替が適当と判断されました。
1992(平成4)年12月、新中央図書館建設に着手し、建物は約3年の工事期間を経て1996(平成8)年1月に完成、屋外工事は3月に完成しました。2月以降は仮移転先の旧電気科学館から順次移転作業をはじめ、開設準備業務を進めました。6月26日に完成記念式典を挙行、7月2日にオープンの日を迎えました。
1998(平成10)年3月の東淀川図書館を最初に、地域図書館の建替えが進められています。新しい図書館は、閲覧スペースが従来の2倍以上となり、ゆったりとくつろげるブラウジングコーナーを設けるとともに、書架間隔にもゆとりをもたせ、障害のある方や高齢者の方々にも使いやすい図書館となっています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 各種の図書館 (016 9版)
- 参考資料
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- 『大阪市立図書館報 図書館通信』No.1(1960.10)~No.88(2011.6)
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『大阪市立図書館50年史』 大阪市立中央図書館 1972 <当館書誌ID:0000372730>
- キーワード
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- 大阪市立図書館
- 大阪市立中央図書館
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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「司馬遼太郎が入り浸っていたという御倉門(みくらもん)図書館は、天王寺公園にあった図書館か?」https://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000051273 (2011.10.23確認)もご参照ください。
大阪市立図書館ホームページに「図書館のあゆみ」 http://www.oml.city.osaka.jp/pub/oml/oml_history1.html を公開しています。
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000093624