レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2006年06月20日
- 登録日時
- 2007/03/15 16:47
- 更新日時
- 2007/04/09 15:55
- 管理番号
- K06-002
- 質問
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解決
坂口安吾『日本文化私観』の冒頭に挙げられている、竹源斎師という人物に関する略歴や生没年等を知りたい。
- 回答
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①阪口安吾が同著書で批判した、ブルーノ・タウトの『日本文化私観』に「二階堂竹源斎師」という人物に関する記述がある。
②『明治大正昭和京都人名録』で「二階堂竺源」で記載され、等持院の住職をしていたことがわかる。
③異なる字が使われていた可能性も考えて、Googleで検索→水上勉が竺源師のいる等持院で修行をしていたことが判明
④水上勉の著書などにより、等持院が東亜キネマに境内の一部を撮影に貸していたことから、映画界に貢献をした人物とわかる。また朝日新聞朝刊に訃報記事が載ったとも記述されている。
⑤『大阪朝日新聞縮刷版』昭和8年8月19日夕刊2面に死亡記事あり。8月13日に75歳で死亡(数え年の可能性もある)
⇒利用者に報告、この情報でよいとのこと。(調査終了)
- 回答プロセス
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※JapanKnowledge、各新聞データベース、人名辞典類には竹源斎師では記載なし。
①坂口安吾『日本文化私観』は、ブルーノ・タウトの『日本文化私観』を批判している内容のようである。
ブルーノ・タウトの日本語訳『日本文化私観:ヨーロッパ人の眼で見た』の中に「この人とは、すなわち1933年75歳の高齢で歿した二階堂竹源斎師である。」 (p.172)とあり、等持院の住職だったらしい。
②『明治大正昭和京都人名録』の昭和の部に、「二階堂笠源」等持院住職と記載あり。生没年の記述なし。
③竹源斎師の「竹」は、異なる字が使われていた可能性がある(字通で「竹」の確認)
Googleで「(竹源 OR 笠源 OR 竺源) AND 等持院」で検索⇒作家水上勉を紹介するサイトがヒット。水上勉が竺源和尚のいる等持院で修行していたことがわかった。
④水上勉自伝『私の履歴書』(新編水上勉全集第2巻)を見ると、「住職は二階堂竺源(じくげん)といい勝山出身の方だった」(p.313)「竺源師はまた、隠岐の奥にオンドロと称する陶芸窯を築かれていた(中略)『朝日新聞』の訃報欄に『映画界に貢献』と見出しが出た」(p.318)「衣笠貞之助が岩波書店の『映画監督』を刊行される際、拙宅に見えて、等持院時代のぼくの記憶をノートにおさめられたことがあった。竺源師は、まことに映画人に親しまれた人だった。誰もが東亜キネマとよばす等持院キネマとよんだ時代がある」(p.319)などの記述あり。
また『わが六道の闇夜』(水上勉全集第12巻)を見ると、「竺源老師は、私がきて四年目の夏に、とつぜん血を吐いて寝込まれた。(中略)薬石効なく九月だったか、残暑のきびしい一日に遷化された」(p.340)などの記述あり。
⑤衣笠貞之助『映画監督』を探すが見つからず、同著者の『わが映画の青春』という本があったので見てみると、「当時の住職二階堂竺源(しゅくげん)和尚には、個人的にもいろいろとお世話をかけた」(p.39)などの記述あり。
⑥『大阪朝日新聞縮刷版』を見ると、昭和8年8月19日夕刊第2面の最下段に訃報記事あり。「二階堂竺源禅師 京都市等持院、天龍寺派別格本山等持院法主二階堂竺源禅師は、病気療養中、去る十三日午前十一時入寂した、享年七十五」などの記載あり。名前のふりがなはふられていなかった。(映画関係の記載はなし)
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- ブルーノ・タウト『日本文化私観:ヨーロッパ人の眼で見た』,講談社,1992,(講談社学術文庫) BN0816312 (回答プロセス①)
- 『明治大正昭和京都人名録』,日本図書センター,1989 BN04031941 (回答プロセス②)
- 『新編水上勉全集』 第2巻,中央公論社,1996 BN13540006 (回答プロセス④)
- 『水上勉全集』 第12巻,中央公論社,1976 BN06087007 (回答プロセス④)
- 衣笠貞之助『わが映画の青春:日本映画史の一側面』,中央公論社,1977,(中公新書) BN00302005 (回答プロセス⑤)
- キーワード
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- 竹源斎師
- 二階堂笠源
- 坂口 安吾
- ブルーノ・タウト
- 水上 勉
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 研究員
- 登録番号
- 1000033964