レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010/06/18
- 登録日時
- 2010/10/28 02:03
- 更新日時
- 2010/11/16 14:29
- 管理番号
- 埼熊-2010-039
- 質問
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解決
加賀藩の上屋敷にあったとされる「氷室」について次のことを知りたい。
1 文政年間、本郷の加賀藩上屋敷に「氷室」があったことが裏付けられる資料があるか。
2 また、いつ「氷室」が上屋敷につくられたのか、わかる資料を知りたい。
- 回答
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1 「氷室」があったことが裏付けられる資料
文政年間に本郷の加賀藩上屋敷に「氷室」があったことの裏付けは、『日本随筆大成 第2期1』所収の「兎園小説」中に、文政8年夏に披露された話として紹介されていることからわかる。また、幕末(1840~1845ころ:文政の直後)の本郷邸を記した「江戸御上屋敷絵図」にも氷室が記載されている。
①『日本随筆大成 第2期1』(日本随筆大成編集部編 吉川弘文館 1973)
収録されている「兎園小説」滝沢馬琴著 のp93に「駒込富士之由来并加州屋敷氷室之事」あり。
この部分は同書の目次によると「第4集 乙酉夏四月朔於海棠庵集会席上披講如例」の一つ。(乙酉:文政8年)
「此の一条、本郷六丁目駿河屋喜太郎話なり。」との記述あり。
「江戸本郷加州御屋敷氷室の場所は、慶長八癸卯年六月朔日、雪ふりたる所なり。其の雪、富士の形につもりたるゆえに、其の所へ浅間の宮を造立し、毎年六月朔日まつりをなす。」「其後、右浅間の宮の所も、加州御やしきへ囲ひ込みとなりても、以前のごとく参詣ありて、御屋敷の御門を出入りしけるを、いかがしきとて、同所御弓町真光寺へ浅間の宮を引き写され・・・」とあり。
また、「兎園小説」の冒頭に明治24年に付された巻頭言によると、「兎園小説は、滝沢馬琴、山崎北峯等の発意にて、文政八年乙酉のとし、同好の諸子と謀り、毎月一回互に奇事異聞を書記し来りて披講し、是年正月海棠庵の発会より、十二月著作堂の集会に終る。毎会の記事を輯めて一部十二巻となせるものなり。(後略)」とあり。文政8年に氷室が存在したことがわかる。
②『江戸のミクロコスモス 加賀藩江戸屋敷』(追川吉生著 新泉社 2004)
p10 図4(その1)「江戸御屋敷絵図」(1840~1845年ころ)あり。同絵図は縮小されているため文字が読み取れないが、p11に図4(その2)があり、同絵図に活字で「氷室」が補ってある。
2 いつ「氷室」が上屋敷につくられたのか
氷室のあった場所には、慶長8(1603)年、夏6月1日に雪が富士山の形につもったため浅間宮が造立された。以降毎年「六月朔日」に祭りを行っていたが、寛永6(1629)年、この土地は宮ごと、加賀藩上屋敷へ囲い込まれた。氷室ができたのはこれ以降と思われる。また、天保9(1838)年発行の「東都歳時記」には、氷室があって氷を献上したという記事があり、1629~1838年の間だろうと推測されるが、それ以上詳細な時期はわからず。
発掘調査などでは、この氷室は、氷を用いた冷蔵庫のようなものではないかとしている。
一方、加賀藩では金沢において貯蔵していた氷を二重の桐長持に容れて江戸に急送し、これを江戸屋敷から6月1日に将軍に献上していた(『加能郷土辞彙』など)。献上日が決まっているので、一時保存のため上屋敷の氷室が使われた可能性が高いが、この「御雪献上」が始まった年代も判明しなかった。
- 回答プロセス
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1 「氷室」があったことが裏付けられる資料
以前受けた類似の質問の記録(レファ協DB:管理番号 埼熊-2007-070 https://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000041440)から『東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書 4 東京大学本郷構内の遺跡 山上会館・御殿下記念館地点 第3分冊』(東京大学埋蔵文化財調査室編 東京大学庶務部庶務課広報室 1990)の記述中にある文献から①を調査する。
前回調査記録から②を調査する。
2 いつ「氷室」が上屋敷につくられたのか
『加能郷土辞彙』(日置謙編 金沢 1979)
p748 (ヒムロノツイタチ(氷室の朔日)の項あり。「六月朔日を氷室の朔日といひ、江戸邸から氷を将軍に献上した。この氷は、金沢において貯蔵したものを二重の桐長持に容れ、八枚肩の脚夫によって江戸に急送したのである。」
『江戸・町づくし稿 中巻』(岸井良衛編 青蛙房 2003)
p295「氷室の御祝儀・加州侯の御屋敷に氷室があって、毎年六月一日に氷を献上した。」という記述あり。
この項の出典は「東都歳時記」。「東都歳時記」は次の資料に掲載されている。
『日本名所図会全集 [6]』(名著研究所編 名著普及会 1975)
東都歳時記 夏之部 中 p123-126
「(6月)朔日 ○氷室御祝儀。[賜氷の節。]加州御屋敷に氷室ありて今日氷献上あり。」という記述あり。
「東都歳時記」は巻末(奥付)に「天保9戊戌孟春発行」とあり。天保9年は1838年である。
『東京大学コレクション10 加賀殿再訪 東京大学本郷キャンパスの遺跡』(西秋良宏編 財団法人東京大学出版会 2000)
口絵 5-溶姫御殿の地下室に「底部にムシロ敷きであったことから、氷を用いた冷蔵庫ではなかったかと推定されている。」と記述あり。
p33図3 「加賀藩本郷邸図」の中央育徳園の北側に、氷室が確認できる。
p128 「氷を用いた冷蔵庫のような性格であったかもしれない。」と記述あり。
溶姫御殿の地下室と質問の氷室は設置場所が異なっている(図面より)
『江戸から東京へ 1』(矢田挿雲著 中央公論社 1998)
p180-183「加賀様のお雪献上」という章あり。
加賀藩からの雪の献上が大奥の年中行事になっていたという記述あり。
「各分科大学の建っている辺の空地へ大きな窖を堀り、桐の箱へ献上の雪をつめて貯蔵せる周囲を・・・」という記述あり。
小花波平六「板橋宿の生活と民俗-江戸末期中山道・板橋宿の場合」(『板橋区立郷土資料館紀要 第7号』板橋区教育委員会 1988)
p10-12 「六月朔日の雪の伝承」の項あり。もとは『兎園小説』にあることと、寛永6(1629)年、この地が寛永6(1629)年に加賀藩前田家の屋敷になったことが記述されている。
《Google》を〈江戸・町づくし稿大名庭園 & 氷 & 献上江戸・町づくし稿江戸・町づくし稿〉などの条件で検索する。
「三四郎池の歴史的変遷について」(地図あり。詳しい配置関係を確認できる。)
「現在の本郷キャンパスに相当する敷地が、加賀藩前田利常の所有となったのは1617年頃であり、大阪夏の陣の褒美として将軍より賜ったとされる。暫くは荒廃していたものの、寛永6年(1629年)に徳川秀忠・家光両公が相次いで訪問した。それに先立って、相当大規模な殿舎の建築と庭園(後の育徳園、現在の三四郎池)の整備がなされた模様である。加賀松雲公(1909)によると、「御露地、泉水、築山などできし、富士見の亭、麻木亭、達磨亭、カラカサ亭、三角亭、鳩の亭などと名づけ、珍しかりける、御物ずきの御亭どもできし」とある。また毎年6月1日、将軍に献上するための氷を貯蔵する「氷室」も園内に築かれたとされる。」(一部抜粋)(http://www.silr.org/s_history.html 2010/06/18最終確認)
武井巌著「金沢の氷室と雪氷利用」(『北陸大学紀要 第28号』p49-62)
「江戸の本郷上屋敷において心字池の東北岸に氷室が設けられていたことが知られている(江戸御紙屋敷絵図(清水文庫)1840年代前半)」 また、加賀藩の幕府へ氷の献上の歴史についても記述あり。(http://www.hokuriku-u.ac.jp/library/pdf/kiyo28/yaku4.pdf 最終確認2010/06/18)
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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- 『日本随筆大成 第2期1』(日本随筆大成編集部編 吉川弘文館 1973)
- 『江戸のミクロコスモス 加賀藩江戸屋敷』(追川吉生著 新泉社 2004)
- キーワード
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- 加賀藩-上屋敷-藩邸
- 前田氏-江戸時代
- 本郷-東京
- 製氷-氷室
- 建築
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000072974